悪夢のような7月5日

高次脳機能障害の原因の半数以上は交通事故

「2005年7月5日」
義兄の事故の知らせを受けたのは妻である私の姉だった。
職場からの電話で
「仕事中にトレーラーと正面衝突をしてヘリで運ばれている」
との電話に血の気が引いたという。
気が動転したまま、母に電話をしたようで
断片的にしか内容は伝わらなかったが、
唯事じゃないという事だけはわかったようだ。


私に義兄の事故の知らせが入ったのは、
勤務が終わり家に帰ってからのことだった。
父から「○○くんが事故に遭って病院に運ばれたって」
と聞き、驚きはしたがちょっとした怪我だと思い
さほど深刻には捉えていなかった。
しかし大学病院に運ばれたと聞き少し不安に思ったため、
先に病院へ向かっているはずの母へ電話をすることにした。


焦った声の母から出た言葉は絶望的なものだった。
「頭を強く打って意識不明の重体だって…。
どうなるかわからないから早く病院に来なさい!!」


電話を受けてから普段高速で1時間半かかる道を
30分でどうやってたどり着いたかはほとんど覚えていない。
ただ覚えているのは
「死なない。絶対死なない。がんばれ。」
と祈っていたことだけである。


病院に着き、家族控え室に入った時の姉の顔は今でも忘れない。
まるで事故に遭った本人かのような生気のない顔。
「どうしよう……。どうしよう……。」
と何度も何度も私につぶやいていた。

子供達(私にとっては甥と姪)は、
無邪気にキャッキャ、キャッキャと遊んでいたが、
上の甥っ子は3歳半になっているため状況はなんとなくわかっていたと思う。
容態が少し落ち着いた2日目に、
「おとうさん、カオ真っ赤だったんだよ」
と手術前に見た義兄の状態を二人きりの車で教えてくれたのだ。


<実際の病状>

脳外的には左前頭部を強打し、頭蓋骨骨折・硬膜内血腫。
(後に、び慢性軸策損傷と診断され、高次脳機能障害と言われる)
身体的には右大腿骨骨折・左両脛骨骨折。
幸いにも内臓や手はやられていなかった。


まずは早急に必要な治療として、
頭蓋骨を外し、対角線上にある右後頭部にできた血腫を取り除き、
出血部の止血、脳損傷の際に最も危険といわれる脳圧の安定が中心となった。
手術前には「もしかしたらこれが最期になるかもしれません」と言われた。


1時間、2時間、3時間と経過し、
控え室前を通る人がいるたびにビクビクしながら、医師が来るのを待った。
そして、手術室に入ってから4時間ほど経ち
ようやく「手術は上手くいきました。一番良い状態です。」
と執刀医からの報告があり、控え室の全員で泣いた。
それまで冷静さを保っていた母も泣いていた。

しかしそれからも足の出血がひどいため、そちらの手術をしたり、
脳にまた出血があったり、脳圧が高くなったりなど、
まだまだ安心できるような状態ではなかった。


子供達を寝かせるため、午前12時、私と母は病院から近い姉の家に帰り
少しでも寝ようと努めたが、いくら枕に頭を押し付けても眠れなかった。
朝方まで眠れず、姉からの「脳圧が高い」「容態が悪化した」等のメールに
家で報告を待つことがこんなに苦しいことなのかと味わったことのない焦燥感を覚えた。


次の日もさほど状態は改善しなかった。
手術室から出てICUに入ったが、容態が安定せず、
手術前に顔を見たきり、誰一人として手術後の義兄の顔を見ていなかった。
面会が許されたのは翌日の午後5時だったと思う。
記憶はさだかではないが、姉と父、義兄の父と母と弟二人の6人がICUへ入った。
顔はむくみ、パンパンに腫れ、両目とも半開きで角膜保護のため軟膏が乗せられていた。
まるで面影のない義兄の姿だったが、確実に生きていた。


点滴で脳圧も安定し、私が面会できるようになったのは、
「ここを超えれば命に別状はありません」と言われていた
3日目の午後7時だった。


意識はなく、自発呼吸もなく人工呼吸器の音だけが響く。
脳圧の安定のためにクーリングで体温は下げられ人間的な温かみも若干しか感じられなかった。
でも、とりあえず生き長らえてくれた!
それだけで素晴らしいことなのである。
言葉はかけられなかったが、生きててくれてありがとう。と心から思った。


甥が大泣きしたのもこの日である。
その日まで母である姉を残して、私と二人で帰るときでも
気丈に笑って「いい子にしてるからね」と帰っていた甥が、
病院の玄関で姉の姿が見えなくなくなったと同時に、
その場に立ち尽くして声を出さずに涙を流し始めたのである。
子供ながらに無理をさせてしまっていたということを実感させられてしまった。
「ごめんね。がんばったね。」
「でも、お父さんに逢えるまでもう少し泣くの我慢しようね。」
「今、この車の中だけは泣いても良いよ。一緒に泣こう。」
と二人で大泣きしたのは絶対忘れない。
いつか、義兄が今の状況を受け入れた時に話してやろうと心に決めている。


しかし、義兄の意識が回復するのには少し時間がかかった。
でも、この続きはまた明日にしようと思う。