高次脳機能障害って何?

*事故後からの不安。

ICUから脳外の一般病棟へ移り、
少しずつ自発的な行動が出てきた頃、
義兄はまだ「高次脳機能障害」という診断を受けていなかった。
意識障害がわずかに残り、CT,MRI画像でも目立った損傷がなかったため、
「び慢性軸策損傷」という病名のみで義兄の反応の弱さなどは、
何が原因なのかと言うことが、はっきりと説明されていなかったのである。


脳外へ移ってから5日目くらいだっただろうか、
義兄の担当の看護士が病室を出て行こうとするところをつかまえて、
事故後、最も気になっていたことを聞くことが出来た。


「義兄が高次脳機能障害を抱える可能性はありますか?」


医療相談員(社会福祉士)として働くものならば、
交通事故に遭い、頭部に強い打撃が加わったと聞けば、
高次脳機能障害」を抱えることになるかもと、連想せざるをえない。
生きるか、死ぬかの時には考えもしなかったが、
意識障害が長く続き、考えたくはなかったが聞かずにはいられなかった。

それに対し看護士は、
まだ身体状況が回復してから経過が浅いので、「まだ判断できない。」
と返答した。


「あぁ、そうなのか」と納得はしたが、
「その可能性はありません」と否定されなかったことにショックをうけた。
「まだ、わからない」ということは、
いつかそういう診断が下されるかもしれないということだ。


姉にも母にも「高次脳機能障害」のことは、
ドクターの口から話が出るまで、話したくはなかった。
事故に遭っただけでもショックの大きい姉達には、
今後待っているかもしれない困難を突きつけたくはなかったから。
それと正直に言って、
私も「もしかしたら何事もなく復活するかも」と少なからず期待していた。
だったら、不安を煽ることもないだろうと思っていたのだ。


普通に生活していて
高次脳機能障害
という字列を目にする事は、ほとんどないだろう。
事実、私以外の家族は「高次脳機能障害」と診断を受けるまで
そして、受けてからも「高次脳機能障害」が何かを知らなかった。
病棟での義兄の感情の表出の変化、記憶力の低下を
ただの事故の一時的な後遺症と思っていた。

正式に診断を受けたのは、
事故から約1ヵ月半後、8月の末頃である。
その後の家族内でのそれぞれの感情は大きく揺れ動いた。
それは未だに続いていることである。


その続きはまた明日にします。

笑顔は人に安心感を与えるもの

*一昨日・昨日と日記をお休みしました。

続きを気にしてくださっていた方、たまたま読みに来てくださった方、
今日からまた続きを書きたいと思います。
今日は表情が戻るところからですね。


*表情が戻る

意識が戻ってから、義兄が初めて自分から意思を伝えたのが
「謝罪」のジェスチャーだった。
自分の顔の前に両手を合わせて、姉に「ごめん」と伝えたのだ。
もちろん、声は出ないし表情もないので、
その動作のみだったが、必死に伝える姿に涙が出た。
母に対しても同じで、何度も何度も両手を合わせる義兄に
私たちは「いいんだよ、大丈夫。焦らないでいいよ。」としか言えなかった。
義兄が自分の今の状況を自覚し始めた頃のことである。

その後も表情は苦痛の時のみで、
それ以外の表情を見せてくれることはなかった。


しかし、意外なことで義兄の表情が戻った。
うちの「父」だ。


家族内では少々お調子者の父ではあるが、
友人や知人などからは「面白いお父さんだね」と評判(?)の父である。
義兄は、1週間に1度は必ず姉の実家である我が家に遊びに来ていたのだが、
父のくだらない話にも必ず笑って答えていてくれた。
我が家は自営業ということもあり、
事故後は、母は孫の世話・父は店の営業のため
義兄のお見舞いにはなかなか行けずにいた。
そして、久々に義兄の病床を訪ねていったのが、
<8月1日>なのである。


本当に残念でならないのだが、
私はその日、体調が悪く会社を休んで家で寝ていたため、
義兄を見舞いに行くことが出来ず、義兄の表情は直接見ていない。
なので、姉と母の証言を元に書いていこうと思う。


<笑った!>

病床を訪れた父を見て、義兄はものすごく驚いたらしい。
その時点で表情の回復の一歩だったのかもしれないが、
私たちを安心させてくれる「笑顔」を作ったのは、帰り際のこと。
いつもの通り、高熱のため反応はそこそこだったようだが、
父は、事故直後の様子しか見たことがなかったため、思った以上の回復に喜んでいた。
しかし、お調子者で的外れな父はよくわからない発言を残して病床を出ようとした。


「お父さんも頑張ってるんだから、○○クンもがんばれよ!」


文章にしてみると、案外普通に読めるかもしれないが、
確実に父よりは、高熱と度々の手術後の痛みと戦っている義兄のほうが
頑張っているはずなのに、
自分(父)と義兄を同じ土俵に置く父の感覚に、
「トホホ」的な笑いだったのだろう、
義兄は父に頭を下げて、苦笑の表情を浮かべたのである。


「苦」ではあったが、確かに笑った。


いつもはズレている父に嫌気が差すところだが、
その日ばかりは「ワッショイ、父さん!」ていうくらい
父を貴重な存在なのだと持てはやした。
父のおかげで義兄の笑顔に再び会う事が出来、心がほっこりした。
やっぱり、笑顔のパワーはすごい。


それからは、表情は徐々に増え、
体力も戻ってきたことから気管も閉じ、会話が出来るようになった。
順調に回復していくかのように思っていたが、
これからが本当の「高次脳機能障害」との対面となる。


我らの最大の敵
<記憶>
との戦いが始まる。


でもそれは、また明日にしましょう。

申し訳ないのですが…

*今日は日記をサボります


義兄の病状と回復について書いているのですが、
今日は職場の先輩と遅くまで語らってしまったので、
まとまりのある文章を書けると思いません…
明日も帰りが遅いので、続きを書けませんが、
必ず書いていきます。
続きを気にしてくださっている方がいると
申し訳ないのですが、今日と明日はお休みします。
マイペースな自分が嫌…

一喜一憂の毎日。

*義兄に表情が戻った


昨日は、事故初日から2週間までの様子を書いた。
人間の記憶は本当に脆くって、きちんとした数字が出せない。
事故から二週間と言うと


<7月19日>

ICUから脳外の一般病棟に移った2日目だ。
その時にはまだレスピレーター(人工呼吸器)が付いたままで、
むせ込みだけで全身を大きく震わせていた。
ただ、意識は若干クリアになり、
自分の歳を指で作ることが出来ていたことは昨日も書いたとおりだ。

それから数日、高熱が続いた。
姉も母も母も医療従事者ではなく、
熱が高いだけでてんやわんやと言った具合だったが、
大きな事故に遭い、出血・輸血などで身体に負担があれば、
熱が高くなるもの当たり前なので、私は割と冷静に観察していた。
(なんて言いながら内心は心配していたけど…(汗))


レスピレーターを長期で使えば、
唾液や痰などが肺に入ってしまい「誤嚥性肺炎」をおこす可能性が高くなる。
熱の原因を1つずつ減らすため、
本人の苦痛を和らげるため、気管切開を提案された。

普通に考えて
<ノドに穴を開けて管を通す>
なんてことは怖いことで、不安を感じるのも仕方ないと思う。
不安から姉は執刀医に失礼な質問をしたこともあった。
「先生は若いですけど、本当に安全な手術なんですか?」と。
姉も「あれは、失礼だったよね…(苦笑)」と反省している。



まぁ、ともかく手術は成功した。
それと共に、詰め所から常時監視できる観察室から
特別個室へと部屋を移ることになった。
これで、ようやく義兄は直接子供達と触れ合うことが出来るようになった。
それでも表情は戻らないまま。

漫画は読めるし、手を使ってイエス・ノーの反応も可能になった。
高次脳機能障害の中には、字を追って読むことが困難になることもあると
本で読み知っていたため、私は義兄に聞いた。
「漫画の吹き出し、ちゃんと読める?」
義兄は気管切開しているため声は出ないが、
口パクで漫画のセリフを読み、読む順も指で指し示してくれた。
とりあえず失認はないようだと、チェック項目の1つはここで消された。

高熱のため、意識や反応は大きく左右された。
今日は右手を大きく上げて自分から要求することがあった。
今日は声かけにも反応が薄く、ほとんど眠っているような状態だった。
などなど、毎日姉からの電話に励ましたり、喜んだりしていた。
家族全体が義兄そのものなのだ。
そんな日が数日続いた。


お待ちかねの表情が戻るのは、
<8月1日>
私が貧血でお見舞いにいけなかった日だ。
そして、義兄の意識回復後、父が初めて病床を訪れた日でもある。


でもそれはまた明日にしましょう。

高次脳機能障害とは、、、複雑。

*昨日の続きを…


事故に遭ってから4日が経っても目を覚ますどころか
声掛けにすら反応しない義兄に内心かなり焦りを感じていた。
意識障害が長く続けば続くだけ、回復が遅くなり、
残る障害も多くなることは明白だったからだ。


しかし、少しずつではあるが回復の兆しも見られないわけではなかった。
自発呼吸が90%近くになり、脳圧も点滴を使わずに安定した。
CRP(炎症反応:怪我やウイルス感染・発熱などあると値が高くなる)も
正常値近くまで戻り、白血球数も事故当初からは2倍ほどに増えた。
苦痛に対する反応も、むせ込みなどで身体を動かす程度に回復したし、
ピクッとだが足を動かすようにまでになっていた。


<声掛けに反応した。>


と確実にわかった日は、事故から10日目のことだった。
たまに動くことがあった右手を姉が握り、
「聞こえる?起きてっ!私の声がわかるなら右手握って!」
ICUで大声を出していた時のことである。
弱い力ではあったが、確かに姉の手を握るのを私もベッドを挟んで見ていた。
声が聞こえて、その内容を理解して、行動に移せるという事実を目の当たりにし、
心底ほっとしたような記憶がある。


それからは音刺激での反応を待った。
もともと子供が大好きだった義兄には、
きっと自分の子供の声が一番の刺激になるだろうとの事で、
その日のうちにテープレコーダーを買い、
嫌がる甥っ子に無理やり(笑)歌を歌わせたり、
「お父さん!がんばってね!待ってるからね!」と
何度も何度も言わせて、テープを一杯にすることにした。
甥には本当に酷なことをしたなぁ、と思いはするが、
結局、一番反応が良かったのが息子の声だったわけだから
ひどいことをしていた叔母を許してくれるに違いない。
姪っ子もわざと泣かせたりしてごめんね…。


<2週間後には一般病棟へ>
意識はクリアになっていないものの、
問いかけにきちんとした反応があり、
気管切開しているため話は出来ないが手で返答できるようになった。
看護士「今、歳はいくつですか?」の問いに
右手で2、両手で6を作って
「26」ときちんと答えることが出来ていた。
それでも、表情はほとんどなくきちんと返答できるのも
半々と言った感じで、両手をあげて喜ぶというわけにはいかなかった。


初めのうちは、「生きていればそれでいい」と思っていても
回復すればするだけ、自発呼吸、声かけ反応、発語…
人間と言うのは、本当に欲が尽きない生き物で、
未だにその欲が湧き出ていることに嫌気がさす。
これでは義兄もつかれてしまうだろうな。

今では、一日の記憶の6割を記憶し、
車椅子も自走でトイレへ行ったり、リハ室へ行ったり。
事故から4ヶ月の割には回復は早いと思っている。
本人は「高次脳機能障害」の自覚がないから、
どう受け止めているかはわからないけれど。

今の状態になるまではまた明日にしたいと思います。

悪夢のような7月5日

高次脳機能障害の原因の半数以上は交通事故

「2005年7月5日」
義兄の事故の知らせを受けたのは妻である私の姉だった。
職場からの電話で
「仕事中にトレーラーと正面衝突をしてヘリで運ばれている」
との電話に血の気が引いたという。
気が動転したまま、母に電話をしたようで
断片的にしか内容は伝わらなかったが、
唯事じゃないという事だけはわかったようだ。


私に義兄の事故の知らせが入ったのは、
勤務が終わり家に帰ってからのことだった。
父から「○○くんが事故に遭って病院に運ばれたって」
と聞き、驚きはしたがちょっとした怪我だと思い
さほど深刻には捉えていなかった。
しかし大学病院に運ばれたと聞き少し不安に思ったため、
先に病院へ向かっているはずの母へ電話をすることにした。


焦った声の母から出た言葉は絶望的なものだった。
「頭を強く打って意識不明の重体だって…。
どうなるかわからないから早く病院に来なさい!!」


電話を受けてから普段高速で1時間半かかる道を
30分でどうやってたどり着いたかはほとんど覚えていない。
ただ覚えているのは
「死なない。絶対死なない。がんばれ。」
と祈っていたことだけである。


病院に着き、家族控え室に入った時の姉の顔は今でも忘れない。
まるで事故に遭った本人かのような生気のない顔。
「どうしよう……。どうしよう……。」
と何度も何度も私につぶやいていた。

子供達(私にとっては甥と姪)は、
無邪気にキャッキャ、キャッキャと遊んでいたが、
上の甥っ子は3歳半になっているため状況はなんとなくわかっていたと思う。
容態が少し落ち着いた2日目に、
「おとうさん、カオ真っ赤だったんだよ」
と手術前に見た義兄の状態を二人きりの車で教えてくれたのだ。


<実際の病状>

脳外的には左前頭部を強打し、頭蓋骨骨折・硬膜内血腫。
(後に、び慢性軸策損傷と診断され、高次脳機能障害と言われる)
身体的には右大腿骨骨折・左両脛骨骨折。
幸いにも内臓や手はやられていなかった。


まずは早急に必要な治療として、
頭蓋骨を外し、対角線上にある右後頭部にできた血腫を取り除き、
出血部の止血、脳損傷の際に最も危険といわれる脳圧の安定が中心となった。
手術前には「もしかしたらこれが最期になるかもしれません」と言われた。


1時間、2時間、3時間と経過し、
控え室前を通る人がいるたびにビクビクしながら、医師が来るのを待った。
そして、手術室に入ってから4時間ほど経ち
ようやく「手術は上手くいきました。一番良い状態です。」
と執刀医からの報告があり、控え室の全員で泣いた。
それまで冷静さを保っていた母も泣いていた。

しかしそれからも足の出血がひどいため、そちらの手術をしたり、
脳にまた出血があったり、脳圧が高くなったりなど、
まだまだ安心できるような状態ではなかった。


子供達を寝かせるため、午前12時、私と母は病院から近い姉の家に帰り
少しでも寝ようと努めたが、いくら枕に頭を押し付けても眠れなかった。
朝方まで眠れず、姉からの「脳圧が高い」「容態が悪化した」等のメールに
家で報告を待つことがこんなに苦しいことなのかと味わったことのない焦燥感を覚えた。


次の日もさほど状態は改善しなかった。
手術室から出てICUに入ったが、容態が安定せず、
手術前に顔を見たきり、誰一人として手術後の義兄の顔を見ていなかった。
面会が許されたのは翌日の午後5時だったと思う。
記憶はさだかではないが、姉と父、義兄の父と母と弟二人の6人がICUへ入った。
顔はむくみ、パンパンに腫れ、両目とも半開きで角膜保護のため軟膏が乗せられていた。
まるで面影のない義兄の姿だったが、確実に生きていた。


点滴で脳圧も安定し、私が面会できるようになったのは、
「ここを超えれば命に別状はありません」と言われていた
3日目の午後7時だった。


意識はなく、自発呼吸もなく人工呼吸器の音だけが響く。
脳圧の安定のためにクーリングで体温は下げられ人間的な温かみも若干しか感じられなかった。
でも、とりあえず生き長らえてくれた!
それだけで素晴らしいことなのである。
言葉はかけられなかったが、生きててくれてありがとう。と心から思った。


甥が大泣きしたのもこの日である。
その日まで母である姉を残して、私と二人で帰るときでも
気丈に笑って「いい子にしてるからね」と帰っていた甥が、
病院の玄関で姉の姿が見えなくなくなったと同時に、
その場に立ち尽くして声を出さずに涙を流し始めたのである。
子供ながらに無理をさせてしまっていたということを実感させられてしまった。
「ごめんね。がんばったね。」
「でも、お父さんに逢えるまでもう少し泣くの我慢しようね。」
「今、この車の中だけは泣いても良いよ。一緒に泣こう。」
と二人で大泣きしたのは絶対忘れない。
いつか、義兄が今の状況を受け入れた時に話してやろうと心に決めている。


しかし、義兄の意識が回復するのには少し時間がかかった。
でも、この続きはまた明日にしようと思う。

こんな時間だけど

*再び日記をはじめます。

好きなもの
気になるもの
感じるもの


について日記を書いていこうと思います。


とは言いつつも
実は、昨日まで日記はつけていました。
でも、今書きたいことは昨日までの日記じゃないので
全部、削除しました。
なぜなら、とても素晴らしい日記に出会ったから。


ネットを少しでも使えて、
医療・福祉に携わっていながら、
日記まで立ち上げておいて、
自分で書こうとしなかったのが恥ずかしくなりました。
だから、今日から書きます。


高次脳機能障害」の義兄と妻と家族について


つまり、私の姉とその夫と私たち家族について
生活や社会、病気そのものについても、
私自身が持っている感情や知識や偏見など
全て混ぜあったどうしようもない日記になるかもしれないけど、
同じような環境の人と少しでも繋がりたいので、
書いていきたいと思います。

日記を読んで不快に思う方や異論をお持ちの方は、
ドンドン抗議、指導していただければと思っています。
明日は、もう少し兄について書こうと思います。
興味のある方は読んでください。